建物・庭園

ここでは三浦館の建物と庭園をご紹介します。


◆表門(笠門:かさもん)
総けやき造りの門で、古くは「笠門」(かさもん)と呼ばれ、秋田藩では武家階級の格式の門。
屋根は現在銅板葺きですが、以前はこけら葺きの屋根でした(こけら葺きの上に銅板を葺いている)。
また門の側面部分の飾りには三浦家の家紋が彫られています。

建てられた時期は判っていませんが、主屋(1861年建立)と同時期ではないかと考えられています。

・笠門の写真


◆主屋(外観)
◯主屋:文久元年(1861年)に建立

高さ約13メートル(普通の建物にすると3階建てから4階建て相当)、建坪約170坪、そして屋根は茅葺(かやぶき)で130トンの茅が使われています。
茅葺き民家として東北地方では最大級の大きさです。

主屋は両端を前に突き出す、秋田中央部に見られる民家の形式で「両注文造り」と言います。

屋根の黒い三角格子の部分は妻飾りと言い、この部分に三浦家の家紋「丸に三引き両紋」を掲げており、これも特徴の一つ。妻飾りに家紋を掲げるのは非常に珍しい例です。

・主屋の写真
・妻飾りに掲げられた三浦家の家紋の写真


◯羽後黒川郵便局

座敷部分を改良して造られた郵便局で、大正7年から昭和52年まで、59年間開局していました。

・主屋に郵便局がある理由
主屋に郵便局がある理由として、「黒川」という地名に関係があります。
黒川は元々油の取れる土地でその油で川が黒く濁るので黒川と言います。
大正3年に三浦家の持ち山から大量の油が大自噴するという出来事があり、それがきっかけとなり新潟から石油関係者が大勢黒川に移り住みました。
その結果黒川の人工が増え、通信施設が必要に。そこで当時黒川の中心的存在だった三浦家の座敷部分を改装して郵便局を開局しました。

なお、修復工事の際、主屋は建立された江戸時代(1861年)の姿に復原されていますが、この郵便局は油田の歴史や、地元の人たちとの繋がりが色濃く残っているということで、大正の姿のままを留めています。

初代の局長は14代目当主の三浦悦郎が務めました。

・郵便局の写真


◯佐竹さんの部屋

郵便局の隣にある座敷で「佐竹さんの部屋」と呼ばれています。

・部屋の特徴
数寄屋造りという、茶室に用いられる建築方法で造られたお座敷。
座敷内の壁は白の漆喰で塗られており、面皮の柱や長押が使われています。
その他、飾り金具の釘かくしや部屋の天井の上下には竹が回してあったりと、意匠的にも他のお座敷とは違った作りになっているのが特徴。

・名前の由来
昭和2年に元秋田藩主の佐竹氏の子孫である、佐竹義春氏が黒川に鷹狩に来ました。その際1週間泊った部屋であることから、佐竹さんの部屋と言われています。

その後非常に大切にされ、誰でも入る事はできませんでした。
掃除も普通の女中さんではなく、年配の女中さんしか許されなかったと言われています。

・佐竹さんの部屋の写真(外観)
・佐竹さんの部屋の写真(内観)


◆土蔵
江戸時代末期〜明治前期に建立

土蔵は三浦家に嫁いできた人が嫁入り道具を入れるための蔵で”お嫁さんの蔵”と呼ばれています。また、蔵にまつわる話として嫁入り道具と一緒に嫁ぎ先から蔵ごと持ってきたと言われています。

修復工事の際、土蔵は無く、基礎跡だけが残っていました。(昭和30年代に15代目当主が土蔵を知り合いに譲っていたため)。
しかし蔵を譲った先で材料が残っていたため、それを貰い受け現在の土蔵に復原されました。

壁は新たに漆喰で塗ったので外観は新しく見えますが、柱やハリなどは一部古い材料を使っています。

また。蔵の中に約2尺(60センチ)の太い柱があるのも特徴です。

・土蔵の写真


◆文庫蔵
明治35年(1902年)に建立

文庫蔵は、三浦家の家財道具をしまっていた蔵。

この蔵は三浦館にある土蔵の中でも最も手間のかけられた蔵と言われており、大きく以下のような3つの特徴があります。

@外壁は白と黒の漆喰で塗り分けられている。
A屋根の軒先部分の瓦には三浦家の紋が入っている。
B棟(頂上部)には瓦を三枚積み上げて青海波(せいがいは)という日本の伝統的文様を表している。

また、以前は主屋と文庫蔵が渡り廊下で繋がっており、当主、奥様、帳場さんといった限られた人達が文庫蔵に出入りしていました。

・文庫蔵の写真


◆味噌蔵
明治時代後期に建立

味噌蔵は左右に戸がついている。また中で仕切られて二部屋に別れています。
左側が味噌や漬物を置いたガッコ蔵。右側はこの地方ではヒロと呼ばれるモミ置き場。

大正3年に黒川油田が自噴して、石油関係者が黒川に移り住んできた大正の初めごろにになると原動機を設置し、精米所として白米を社宅の人たちに届けるようになりました。

・味噌蔵の写真


◆米蔵
明治24年(1891年)に建立

米蔵は5千俵入りの蔵と呼ばれた蔵です。

修復前は蔵の傷みが激しかった為1度蔵を解体し、使える材料と使えない材料にわけ、そして使える材料を再び使い復原しています。

中には三浦家の年表や、戦国時代に居城していた浦城に関係する資料、そして八郎潟の人たちが立ち上げたNPO法人「浦城の歴史を伝える会」の活動写真も展示しています。

・米蔵の写真


◆鎮守社
慶応年間(1865年〜1868年)に建立

三浦家の守り神である、龍神様とお稲荷様を祭ってある建物。江戸時代初め、三浦家二代目当主が氏神を※勧請(かんじょう)しました。

毎年旧暦2月に初午祭を執り行っています。

※勧請(かんじょう)
神様、仏様を呼び迎えること。


・鎮守社の写真


◆馬小屋
馬小屋:明治初期に建立

昭和10年代前半に、分家の家屋の一部(馬屋部分)を移築した建物。
当時は1階で乳牛を飼育、2階は物置として使用していました。

・馬小屋の写真


◆見下ろしの庭
三浦館の主庭園で、見下ろしの庭と呼ばれています。

日本庭園は同じ目線か、それよりも高い所に庭を作るのが一般的ですが、高台という地形を利用して、見下ろす形の庭になっているのが特徴です。

この庭園は京都から庭師を連れてきて造ったといわれており、真ん中のひょうたん型の池も特徴の一つ。そこを中心に回遊できるように造られた庭園となっています。

・見下ろしの庭の写真



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